「二次元萌えを諸外国の人々にどう説明したらよいか考える」

twitterで、ガメち(イギリス生まれ)とオダキンさん(日本生まれ)が、二次元萌え(エロ)について何度かバトルしているのを見ました。初めて私が見かけてからもう一年以上経つのではないかと思う。丁度、政治家の人が、ひどいセクハラ発言をした時にこの話題になって、オダキンさんが二次元萌えについてなんか言うたびに、ガメちが「アンビリーバボー」とか、「ジーザス」とか「オマイガッ」って、日本語で言ってた。

(わーtwitterって誰でも見られるんだお。容赦ねえなガメち。仲良しだから言えるんだろけど、オダキンさんカワウソ)


と思っていたところ、ガメちが「続きはメールで話そう」って発言した。うんうん。


私、残念な記憶力の持ち主なのですが、この時のことはとてもよく覚えている。ガメちには、理解しがたいかもしれないけど、私は二次元萌え(エロ)、なんとなくわかる。二次元萌え(エロ)は目に入ってしまったらキモいと思ってるけど(キモいと思わない女性もいます)それは、オダキンさんが一人で楽しむ分にはいいと思うし、オダキンさんがガメちに「モテる人はいいよな」と言ったのも、なんかつらぽよな気持ちになった。オダキンさんとガメちはとても仲良しなのを知っていたので、そのことでヒビが入るなら、私はなにか出来ると思ったのです。それで、「そのメールのやり取りに参加させて欲しい」と書いた。そしたらガメち、「オダキンがカワウソだからイヤだ」って。マリタンは(ええ!こんだけtwitterでオダキンさんに容赦ねえこと書いて、カワウソってなんだよ!)と、ちょっぴりおかしかったのだけど、ガメちの思いやりも痛いほどわかったので、この件をずっと見守ろうと心に決めて、見守っています、と書いたのでした。


ほんで、先日、またオダキンさんとガメちがやり取りしてて、(日本で、政治家がなにか発言するたびに、twitterでその手のことが問題になるたびに蒸し返されている模様)なにも進展していないようでした。そしたら、ガメちが最近、お友達についてブログに書いていたので、またオダキンさんとなんかあったのかと思った。私は、ずっと考えていたよ。今日は、この前書いた欧州の60年代と70年代のことを引っ張り出したら、ちったーわかりやすいかと思いついたので、書いてみます。

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欧州とアメリカでは、カウンターカルチャーってあったじゃないですか。先日も書きましたが、60年代、70年代の欧州で既存の政治や倫理から脱しようとした方々が生み出した文化です。


んで、その中には、「俺たち勝手に自由にやるよ」派がまずあって、そのあと、「どうにかしろよおいこら」派があったと思うのです。すげーざっくり書きますと、


◆「俺たち勝手に自由にやるよ」派
ヒッピーはインドに行ったり自分探しをしちゃったのです。ロックで言うと、サイケ、オルタナグランジ辺りもこれにあたります。逃避先はドラッグでした。


◆「どうにかしろよおいこら」派
その後、そろそろドラッグやってた人とか、インドに自分探しに行っちゃった人の顛末が見えてきた。文化自体はアメリカを経由し、再び欧州へ。なに逃げてんの、ちゃんと申し立てすりゃいいじゃん、がパンク。


ちょーざっくりですが、今日は、ガメちとオダキンさんのために書いてるからいいのです。興味のある人はいくらでもググってみてください。んで、大体、こういうのはワンサイクルしたら、納まるのです。同時代に一緒に生きた人がどうなったか見えてきたら、なーんや、ってことになったり、政治や経済で革命が起きたら、OK,俺たちの訴えたことが報われた、となったり。


さてさて、60年代、70年代の日本ではどうやったか、その時代に青春時代をすごされた方々が、このブログをご覧になっていますかね。これらの文化は、日本にもやってきて、それは、政治や倫理の違いすぎる国では、蕁麻疹のような余波程度でしかなかったかもしれません。敗戦後、経済成長の真っ只中です。日本の政治は経済党ですし、みんなそれに倣って、普通にお勤めした人が「お得」でした。文化を輸入したつもりが、「あれ、これ、儲かるやん?」となって、儲からなくなったら終わりです。(※寺山修司さんはじめとして、確実にその文化を肌で感じ、正確に日本語に訳したり、それを自国で伝わる形で体現した文化人もたくさんいます)


いつの時代にも、どこの国にも、閉塞感に対しては、宗教で教えるような諦めや、新しい道へ繋がる抜け道が必要です。日本で、経済と宗教の抜ける場所は、ライブドアとオウム制裁という形で、断ち切られたように思います。コトの良し悪しを書いているのではなく、見せしめ的な役割も果たした、という意味で。トランプゲームの大富豪ってあるじゃないですか。あれで、革命っていうルールがあって、全部がフラットになったり、ひっくり返るじゃないですか。日本は、革命っていうルールがない大富豪というゲームをずっとやってるの。だから、富豪(比喩です)は自分で富豪って言わない。こっそりしているのです。


話がちょっとそれちゃいましたが、政治には期待も興味ない、自分探しにも出られない、ドラッグもない、その後の申し立てもできない、さらにモテないときたもんだ、さぁ、二次元(エロ)の出番です。「俺たち勝手に自由にやるよ」派も「どうにかしろよおいこら」派も、みんな二次元にくるといいお。二次元は、日本の逃避先であり、依存対象であると思います。ドラッグのような厳しい規制はありません。作るほうも嬉々としているように見えます。長らく逃避先として機能しているので、明らかに品質が高くなってきました。インターネットが普及してからは、どこでもみかけるようになった。そういった絵が普及すると、文化と逃避先の境界線が曖昧になって、しまいには国家予算でこれをアピールし、輸出するとか言い出した人もいる。処女信仰、幼女萌えについても書こうかと思ったけど、気持ち悪くなってきたからやめとく。


個人的には、見るのもイヤです。でも、政治家(権力者)が発するセクハラ発言で女性が嫌がるのと、二次元萌えの普及で女性が嫌がったりするのは、根底から違うのです。二次元萌えは、カウンターカルチャーの中のドラッグの役割を果たしていると思う。ドラッグの役割を果たしているものを文化と称して国家予算で輸出するなんてのは恥ずかしいからやめてくれ。でも、繊細な人も人権を良くわかっている人もこっそり楽しんでいることがある。一方、権力者がセクハラ発言をするとき、人権を無視していると思う。繊細な人はいません。彼らは一様に厚顔無恥です。

んで、権力ミックスで二次元萌えされると、最悪。もう、これ、最悪。二次元萌えで、権力者、最悪。


以上、(どこをどう読んでもわかると思うけど)二次元萌え(エロ)を肯定するものではありません。どうしてこうなったかを説明したかった。

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最後に、小噺を一つ。

あるプロジェクトを立ち上げの際、新進の若手作家さんにお声かけしました。とても才能ある人だった。快いお返事を頂き、メーリングリストでたくさんの意見を交わしました。とても楽しかった。そして、女性ボーカルが見つかりました。生命力の強い、タフなハーフの女の子だった。リタちゃんです。

忘れられないのは彼が書いた

「二次元萌え系の音を作ってコミケで捌いた方が『現実的です』」




ジーザス。笑

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↑ここまで、昨日書いた。んで、もうちょっと考えてみた。

二次元萌え(エロ)の人って、インターネットで、ハイクオリティな絵がたくさん出てくるようになって、二次元萌え(エロ)が市民権を得たと舞い上がっている最中なのではないだろうか。

いくら絵がハイクオリティになったとしても、例えば、自分の楽しみで見ているなら、それは心に秘めておけばいいのにと思う。AVの女優がいくらかわいくなっても、それへの偏愛をtwitter書く男性がいたなら、それは、普通にゲスいと思うのと一緒で、キモいに決まってる。

ただ、AVの女優に偏愛があり、自分の楽しみにしている男性は、あくまでもリアル女性が延長上にいて、その人たちへの気遣いがあるのでインターネットでは書かないし、それを心に秘めておけるのだと思う。二次元萌えの男性は、延長上にリアル女性がいないことが多いように思う。リアル女性に無視され、リアル女性を無視しているのだと思う。それがとても失礼な態度に当たるともわからず。インターネットにも女性がいます。ガメちを通して、私はオダキンさんを見ている。

以上踏まえ、百歩譲って、オダキンさんの今回の発言「日本に性差別はない」(バカバカしいw)の元になっていることを考えると「過去に女性から無視されたか、酷い態度を取られたので無視している(可能性がある)」=彼は女性にコミットしていない、彼の中に奥さんと娘さん以外の女性が存在していないだけでは。と思う。そうだとしたら、あまりにも視野が狭いのであろうし、現実を見ていないと思います。

話がちょっと飛ぶけど、政治家としても、男性としてもまっとうだなぁって思うのは、熊谷俊人氏と小泉進次郎 氏くらいだなぁ。なぜかって、日本は、モテないとそれだけで十字架を背負う国だと思うから。(差別というよりコミットできない元ができる)女性とフラットにコミュニケーション取れるって、稀なんだと思う。

時々考えていたのだけど、ちょっと言葉にできそうなので、書いてみると、私が、女性差別の問題にあまり言及しないのは、その問題で、女性は「いない」ものとして「取り扱われている」ような気分になるからだと思う。ガメちは、声を上げろ!と吹っかけるけど、なにも言う気がおきないんだな。いないことになってるんだもん。だから、オダキンさんにもほんとは、なにも言う気はなかった。結局ガメちがさびしいのを見てるのはこっちもさびしい気分になるし、ガメちが涙がでてるのがイヤなので、書いたんだな。