爽やか、死んだ

私が、作詞・作曲していて、一番、言葉と実際の乖離があると感じたのは、「愛」ではなく「爽やか」でした。

80年代以降、マスメディアによって作り出された「爽やか」の幻影はとても根深いと思うのです。

その幻影は、主に「清潔感」と「飲み心地」と「恋愛におけるモテ」で出来ているように見えます。言わずもがな、経済効果の高い、「清潔感」に関わる日用品と「飲み心地」に関わる清涼飲料水、様々なステマを含んだドラマから、それは成りました。

広告に関わる方は、一度は「爽やか」について考えられたことがあると思います。「爽やか」は、元々は、経済に利用されるくらいの精神性と価値の高さがある言葉だった。「爽やか」の精神性は、消費され、完全に元の意味を失ってしまったと思います。「爽やか」に変わる別の言葉が欲しいと、いつも思います。

それと比べると「愛」は、誰でもが日常的に触れられることなので、その価値が変わりにくい。ちゃんとした形で、受け継がれやすい。

「爽やか」は人と物に対して使われる言葉ですが、人に対してこの言葉を使うとき、その精神性には、ヒエラルキーがあり、誰でもが、日常的に触れられるものではありません。どろどろとした社会の中ですいすいと切り拓いていく人がいた時、その中で、それでも軽快にすっきりと奇跡のように生き抜いている人がいたとき、相対的に浮かび上がる精神性です。商業的に利用されてしまうと、いっぺんにその意味が希釈され、一人歩きをはじめてしまいます。繰り返し商業利用されるうちに認識は更にズレ、元の意味を完全に失ってしまう。

私は、誰もがわからない精神性の高さに使われている言葉ってのは、本来は、広めたり、安易に口にしてはいけないものだと考えています。これは、人が、自分の理解の及ばないことに対して、どういう態度を取るか、考えてもらったらわかると思います。わかる時期が来るまで言葉の方で待ってくれてるわけです。



高村光太郎さんの詩をひとつ



まづ第一に言つておかう
僕から世間並の友誼などを決して望むな
僕は君の栄達などを決して望まぬ
君のちひさな幸福などを決して祈らぬ
君は見るだらう
僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを
なぜだらう
逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ
僕に特恵国は無い
僕の固定の友は無い
友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ
世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな
百の友があつても一人は一人だ
調子に乗らずに地でゆかう
お互にお互の実質だけで沢山だ
その上で危険な路をも愉快に歩かう
それでいいのだと君は思つてくれるだらうか