「美文」

午前中、自分は美しい文章が書けなくなっているのではないかと不安を覚えたので、美しい文章を書いてみたいと思い立ちました。ガメのせいだ。

なんだろうね、美しい文章って。(やや。始まった途端に終わりそうだ)


一応、音楽の「はしり」と「もたり」、言葉の持っているリズムについて書いてみようとテーマを決めていたのだけど、気が変わった。その前に、今日は「美文」について考えてみることに。(学者間で「言語」の定義も未だ曖昧なのに!)(無謀といいます)



小学生の頃、作文で表現の楽しみを覚えた。原稿用紙に文字を綴り、提出すると、先生が良いと思われる箇所には朱色のペンで、ひとマスごとに小さな丸を付けてくれた。テストの結果やそういった添削はあまり気にしない性だったけど、ある日、原稿用紙の8割がその小さな朱色の丸で返ってきたことがある。物に執着がないので、それはすぐに捨ててしまったように思う。だけど、とても印象に残っている。


内容は、家族で川に行った、ただそれだけのことだったのだけど、途中から筆が勝手に進む、という初めての体験をしました。書きながら、長くなるなー、イヤだなーとチラチラ思っていたけど、筆は止まらなかったので書き進め、だけど、あっという間に書き終わったように感じた。書き終えると相当の時間が経っていて、ポヤーンとする時間が大好きだった私は、ち、(←舌打ちね)と思ったのだけど、その初めての体験が貴重な体験であることは、なんとはなしに自覚していた。


それで、その原稿用紙数枚を提出した。どちらかと言うと、重い気持ちで提出しました。他人にとっては、下らない話を長々と書いた、と思っていたからなんだな。読書量は多かったので、面白い読み物と比較して、正直、この作文を読む人はつまらないだろう、と考えていた。とても集中して書けた、それだけのことだった、と。だけど、先生は、小さな朱色の丸で、原稿を埋め尽くしてしまった。嬉しかったけど、子供心に(非常な労力だったに違いない)と思って気の毒だったな。


大人になって、一人の作家を知りました。あまりにも有名ですが、スティーブンキング(Stephen Edwin King)という作家です。私が最初に手にとったのは、もちろん訳書だったのだけど、スティーブンキングが書いたその時の集中力に押されながら翻訳家が訳しているのがありありと想像できた。そのとき、私は、あぁ、と思ったのです。美しい。





文章を学ぶと、いろんな技術が身につきます。文章はアルゴリズムだ。美しい文章には、美しいアルゴリズムが潜んでいる。言葉の持っているリズムや響きも、それが発声された時のことを思い浮かべながら書けば、音としてのアルゴリズムがあるとわかる。アルゴリズムをわざと崩したり、また立て直したりしながら、違うアルゴリズムを入れ替えながら、だけど、それも表現してしまえばその瞬間に、それは一定のアルゴリズムの中に埋没してしまう。文章の要素は複合なので、やはり良質のインプットや、相応のアウトプットの訓練が必要かもしれない。でも、それらをどれだけ学んでも、究極の美文にはたどり着かないだろうと思うのです。


語用論という、言語学の中の一分野があります。言葉は相互の関わりから生まれるけど、美文、そして伝える力というのは、相互に依存しない。ただただ、書き手の集中力に依存するものと思います。


参考「語用論入門」
http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-40118-4.html



集中を極めると、アルゴリズムを逸脱する瞬間がやってくる。ランナーは他のランナーをぶっちぎって、一人、ランナーズハイの世界に身を投じることができる。集中力の高さと、限りない開放を同時に味わえる時間がやってくる。たぶん、その時間だけが、唯一、美しい文章を、表現を生み出すものなのだと思います。


以上、これは、美文ではないな。無念。