書と絵画

長い間、絵画が好きだと思っていました。いや、好きなんだけど。時折、新聞に掲載される書を眺めている時間がやたらと長く、もしかして、絵画より、書を見ている時間の方が長いんじゃね?と思ったのが先日のこと。それから、自分の行動を振り返り、やはり、絵画より書が好きだという結論に至った。びっくり。今まで、絵画の方が断然好きと、思い込んでいた。

なぜ書を見る方が好きなんだろう、と考えてみたら、ものすごーく単純明快で、書の方が、瞬時の高い判断力と集中力を要するってことだと思う。それを書の向こう側に見るのが、好きなのです。絵画でも、私は、ドローイングがたまらなく好きで、それについても説明がつきます。

もう少し詳しく書くと、絵画はたくさんのデッサンを重ね、構図を決め、様々なテクニックを駆使して、自分の「こうしたい」と人から「どう見えるか」をたくさん行ったり来たりして、洗練され、完成を見ます。対して、書は、自分の「こうしたい」と人から「どう見えるか」を一瞬で判断しながら筆を進めます。これは、メロディーが鼻歌で出来る時ととてもよく似ていると思う。曲を作ったことがある方は、よくわかると思うのだけど、とてもリラックスしていて、しかもとても集中力が高い状態。一瞬の芸術と思う。

ADELEというシンガーソングライターがいます。爆発的人気は、みなさんご存知かと思いますが、彼女は一筆書きのような曲を書く。昨年何枚かCDを購入しましたが、ずっと聴いてい(られ)るのはADELEのCDだけです。今、一緒になにか作りましょうとお話ししている、力のあるボーカリストさんがいて、彼女のために、ADELEのような、一筆書きのような曲を、と、知り合いの作家さんに何度かお願いしました。日本の作家さんなので、みな、そのニュアンスを瞬時に理解してくださいます。(私を含め、出来るかどうかは別として。笑)


で、これって、ものすごく大雑把に書いてしまうと、エンタテイメントに繋がる要素のある表現やスポーツの多くに、観客は、一瞬の判断力と集中力を期待しているのではないかなぁと。(ある種の大人数でのスポーツでは、個人的な主客に加えて、全体のプレイを俯瞰的に判断する要素も含まれるので、まさに奇跡と思う)奇跡的なプレイ、奇跡的な演奏、歌唱。(の為にはやはり、テンションの乗り切る一筆書きのようなメロディが必要と思う)

あとは、個人的に、作品の向こう側に、洗練ではなく(ADELEのバックの音はかなり洗練されていますが)、集中力と判断力が見える、人がいるというリアリティや安心感を私は渇望しているんだなぁと思ったり。それは、優秀な人が集まって、マーケティング考を重ねると、失いやすいものの一つと思う。

最後に、もう一つめも書きをすると、技術的ななんやかんやが論じられたり、ノウハウが蓄積されたりすると、完成品もさることながら、その技術について語る場というものができあがるよなぁと思う。これは、一瞬の芸術に対する、純粋なファンとは異なり、技術を習得しようとしているコアな層や、観察者で形成されます。日本はそこから裾野が広がる例があるなぁと思う。それは、何かが流行るときの、日本的な一つの面白い経緯であり、逆に、シンプルな一瞬の芸術に到達するのが、困難とも言えるのではないか、と考えました。


この「一瞬の芸術」について、そして、時間について、最近はよく考えていたのだけど、自分の頭の中に点在していたものがすこーしだけ線で結びつきました。今度は面に、そして、もう少し奥行きが出るように考えたいので、今日はそのためにも思考めも。